ナルニア国ものがたり、Styrofoam
C.S. ルイスの『ナルニア国ものがたり』(C. S. Lewis, "The Chronicles of Narnia")を全巻読み終えた。僕はこの装丁のもの:『ナルニア国ものがたり』
で読んだけれど、他にも色んな装丁のものがあるみたい("C.S.ルイス"でアマゾン検索
)。最近出たカラー版のものや、安価なものなど。As you like.(カラー版っていいね)。
でも、僕が上のタイプの本で読んだのにはわけがある。というのも、その本自体を買ったのは僕ではなくて母親だから。どの本の最後にも丁寧に本を買った年:1975年と自分の名前(旧姓)、あと読み終えた月日(?)が書き込んである(笑)。と、笑っているけど、僕はそういうのが好きなので、その署名を見てると少し感慨深いものがある。僕はまだ生まれていないわけだし。ということで、大事な本(とってもお気に入りの本、または誰かに伝えたいような本)は迷わずハードカバーで買うことを僕はオススメする。ちょっとくらい大きくて重くても、大事な本はしっかりとしたものの方が長持ちするし、本棚の見栄えもいい。あと挿絵も大きくて良いしね。
さて、本を読み終えて。僕はいささか困惑している。もちろん、名著だから、面白くないなんてことは全くなかった。何よりもまず、「衣装だんす」から別の世界へ行ってしまう、なんて発想は素晴らしいし、とっても魅力的。くれぐれも衣装だんすで遊ぶときは(その中に隠れるときは)、たんすのドアを閉めてしまうなんていう「ばか気たこと」をしてはいけない。
でも、最終巻「最後の戦い」を読み終えた後の気持ちは、これまで巻の読後感とはちょっと違っていた。まだ読んでいない人もいるだろうし、来春に映画も公開されるということで、今読んでいる方もいるかも知れないから、詳しくは書かない(あるいは気持ちが纏まっていないので書けない)けど、僕は『ナルニア国ものがたり』を読み終えて、少し悲しい気持ちになった。それは、もう本を読み終えてしまった、あるいは「もうナルニアの冒険を読むことができない。」という単純なものではないし、僕がナルニアに行ける年齢を超えていることが悲しいという馬鹿げたものでもない。うまくは言えないけれど、『ナルニア国ものがたり』は、所々でものすごく悲しい気持ちにさせる話だった。
ファンタジーなんだけれど、そっちの世界、つまりはファンタジーの世界=ナルニア、のことばかりについて書くのではなくて、どこか常に、我々の住む世界=現実の世界と、仮想の世界=「ナルニア」が、別のものとして書かれている。最終巻を読めばわかるのだが、それらの世界にはある種の連続性も存在する。従って、二つの世界は対立する、とまでは言えないだが、結局は別の世界だ。
**ちょっと不正確な気がしたので考え中。
ぼんやりと言い換えれば、この本を読み終えたものは(それを読んで得たものを携えて)、自らの生きる世界に帰らねばならない、と僕はルイスに言われているような気がしてならない。我々は、ルーシー、エドマント、スーザン、ピーター、または、ユースチス、ジル、さらには、ポリー、ディゴリー、たちを通してナルニアの世界を垣間見ることはできる。でも『ナルニア国ものがたり』は、どこかその物語にどっぷりとつかることを拒む気がする。少なくとも僕は、今の所、何となく拒まれている気がする。それはある意味ですごく健全なことだと思う。というのも、ファンタジー(幻想物語?)は、単なる空想でもなければ体のいい現実逃避でもないからだ。でも、それってちょっぴり悲しくない?
というのが、今の僕の(暫定的な)『ナルニア国ものがたり』を読んだ感想。また読み返すうちに、あるいは時間がたつうちに変わる可能性は大いにあり、また、もっと正確に言えるようになる可能性もちょっぴりあり。それにもしかしたら、そんな風に僕が感じたのも、僕が『ナルニア国物語』を読むのが遅かったからかも知れない。もっともっと小さい頃に読んでいたら、もっと素直に楽しめたのかも知れない(でも結局、同じようなことを思いそうだが)。
*一応書いておくと、こんな風に感想を述べたからといって、僕が『ナルニア国ものがたり』を愛していないというわけではない。
ちなみに全巻を読み終えて、『ナルニア国ものがたり』に出てくるキャラクターの中では「泥足にがえもん(Puddleglum)」というキャラクター(『銀のいす』という巻に出てくる)が一番好き。というか僕のヒーローになった。ということで、僕のナルニアン・ヒーローは泥足にがえもんで決まり(僕のヒーローがまた一人増えた)。
あと一言加えるなら、全巻を通して挿絵を手がけるポーリン・ベインズ(Pauline Diana Baynes)さんの絵はとにかく素晴らしい。
■ポーリン・ベインズ
*いつも通り、幻想美術館さんへのリンク。いわずもがなの良いサイト。
■Some Narnian book covers by Pauline Baynes
ポーリン・ベインズさんの挿絵を集めた本があれば、手に入れたいなと思う。
では、オールヴォワール、モナミ。
今聴いている音楽。

Nothing's Lost, Styrofoam
Death Cab for Cutie の Ben Gibbard も参加しているベルギーのエレクトロニカ・アーティスト、Arne Van Petegemの音楽。まだちゃんと聴き込んでいないので何も言えない。Ben 繋がりで言えば、"The Postal Service"
の音楽も聴いてみたいなと思っている。
■Styrofoam, Official Website
■www.myspace.com/styrofoam
でも、僕が上のタイプの本で読んだのにはわけがある。というのも、その本自体を買ったのは僕ではなくて母親だから。どの本の最後にも丁寧に本を買った年:1975年と自分の名前(旧姓)、あと読み終えた月日(?)が書き込んである(笑)。と、笑っているけど、僕はそういうのが好きなので、その署名を見てると少し感慨深いものがある。僕はまだ生まれていないわけだし。ということで、大事な本(とってもお気に入りの本、または誰かに伝えたいような本)は迷わずハードカバーで買うことを僕はオススメする。ちょっとくらい大きくて重くても、大事な本はしっかりとしたものの方が長持ちするし、本棚の見栄えもいい。あと挿絵も大きくて良いしね。
さて、本を読み終えて。僕はいささか困惑している。もちろん、名著だから、面白くないなんてことは全くなかった。何よりもまず、「衣装だんす」から別の世界へ行ってしまう、なんて発想は素晴らしいし、とっても魅力的。くれぐれも衣装だんすで遊ぶときは(その中に隠れるときは)、たんすのドアを閉めてしまうなんていう「ばか気たこと」をしてはいけない。
でも、最終巻「最後の戦い」を読み終えた後の気持ちは、これまで巻の読後感とはちょっと違っていた。まだ読んでいない人もいるだろうし、来春に映画も公開されるということで、今読んでいる方もいるかも知れないから、詳しくは書かない(あるいは気持ちが纏まっていないので書けない)けど、僕は『ナルニア国ものがたり』を読み終えて、少し悲しい気持ちになった。それは、もう本を読み終えてしまった、あるいは「もうナルニアの冒険を読むことができない。」という単純なものではないし、僕がナルニアに行ける年齢を超えていることが悲しいという馬鹿げたものでもない。うまくは言えないけれど、『ナルニア国ものがたり』は、所々でものすごく悲しい気持ちにさせる話だった。
**ちょっと不正確な気がしたので考え中。
ぼんやりと言い換えれば、この本を読み終えたものは(それを読んで得たものを携えて)、自らの生きる世界に帰らねばならない、と僕はルイスに言われているような気がしてならない。我々は、ルーシー、エドマント、スーザン、ピーター、または、ユースチス、ジル、さらには、ポリー、ディゴリー、たちを通してナルニアの世界を垣間見ることはできる。でも『ナルニア国ものがたり』は、どこかその物語にどっぷりとつかることを拒む気がする。少なくとも僕は、今の所、何となく拒まれている気がする。それはある意味ですごく健全なことだと思う。というのも、ファンタジー(幻想物語?)は、単なる空想でもなければ体のいい現実逃避でもないからだ。でも、それってちょっぴり悲しくない?
というのが、今の僕の(暫定的な)『ナルニア国ものがたり』を読んだ感想。また読み返すうちに、あるいは時間がたつうちに変わる可能性は大いにあり、また、もっと正確に言えるようになる可能性もちょっぴりあり。それにもしかしたら、そんな風に僕が感じたのも、僕が『ナルニア国物語』を読むのが遅かったからかも知れない。もっともっと小さい頃に読んでいたら、もっと素直に楽しめたのかも知れない(でも結局、同じようなことを思いそうだが)。
*一応書いておくと、こんな風に感想を述べたからといって、僕が『ナルニア国ものがたり』を愛していないというわけではない。
ちなみに全巻を読み終えて、『ナルニア国ものがたり』に出てくるキャラクターの中では「泥足にがえもん(Puddleglum)」というキャラクター(『銀のいす』という巻に出てくる)が一番好き。というか僕のヒーローになった。ということで、僕のナルニアン・ヒーローは泥足にがえもんで決まり(僕のヒーローがまた一人増えた)。
あと一言加えるなら、全巻を通して挿絵を手がけるポーリン・ベインズ(Pauline Diana Baynes)さんの絵はとにかく素晴らしい。
■ポーリン・ベインズ
*いつも通り、幻想美術館さんへのリンク。いわずもがなの良いサイト。
■Some Narnian book covers by Pauline Baynes
ポーリン・ベインズさんの挿絵を集めた本があれば、手に入れたいなと思う。
では、オールヴォワール、モナミ。
今聴いている音楽。

Nothing's Lost, Styrofoam
Death Cab for Cutie の Ben Gibbard も参加しているベルギーのエレクトロニカ・アーティスト、Arne Van Petegemの音楽。まだちゃんと聴き込んでいないので何も言えない。Ben 繋がりで言えば、"The Postal Service"
■Styrofoam, Official Website
■www.myspace.com/styrofoam
Big Issue, George Orwell, Nitin Sawhney
いつもの道をいつも通りに歩いていたら、ビッグ・イシュー(Big Issue)を販売している人を見かけた。奈良美智さんの絵が表紙だったので気になって買ってみた。するとその方はいくつかのバックナンバーも同時に販売されていたので、気になる表紙のものもいくつか買った。
結果、買ったのは奈良美智表紙の12月号、UA表紙の11月号、ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)表紙の10月号、の三冊。
ジョニー・デップ(Johnny Depp)が表紙のものも欲しかったけれど売り切れとのこと。やはりデップの人気はすごいということなのか。
一冊200円なので計600円。
さて、ビッグ・イシューがどんな雑誌かという情報はこちら。
■ビッグイシュー日本版
僕はこのビッグ・イッシューという雑誌をちょくちょく買って読んでいる。というのも、一番の理由は面白いから。今日買った三冊も面白かった。
例えば、12月号は奈良美智さんのインタビュー、犬神サーカス団の凶子さんの短いインタビュー、。浜野佐知さんという映画監督のインタビューが面白かった(この方のことについては何も知らなかったので知れてよかった)。またどういうわけか、僕は奈良美智という人を誤解していた。言い方は悪いが、ちょっとした売れ筋アーティストだと思っていた。しかし、実際は純粋に絵を描くことを愛する人だった。服装を気にしないという辺りにも好感が持てた。単なる先入観/偏見で人を判断してはいけない(自明の自戒)。
11月号はUAのインタビューがまぁまぁ面白く、またイライジャ・ウッド(Elijah Wood)のインタビューもちょっぴり面白かった(僕の友達はイアン・マッケランさ、というくだり)。あとは刑務所に関する記事も。
10月号はユアン・マクレガーのインタビュー、「アジア、マンガ事情」と冠された特集記事、ソウル・ウィリアムズ(Saul Williams)の記事が面白かった。特に「芸術は政治的だ」という彼(Saul Williams)の態度が興味深かい。もちろん、この意見には賛否もあろうが、僕はジョージ・オーウェルの考え方なんかに影響を受けているので、芸術家・作家などがその時代の重大な政治的事件を無視するということには少し否定的。でもあらゆる芸術(あるいは芸術家、作家)が政治的目的を持っていなければならない、という気もしないのだが。でもこれについてはぼんやり考えているだけなので自分の考えを書くのは止めておく。オーウェルがどう述べているか気になる方は、『鯨の腹のなかで―オーウェル評論集 3 平凡社ライブラリー』という本の「鯨の腹の中で」という評論を読むのがオススメ。とても面白い分析がなされている。あとは有名な「なぜ私は書くか」という論文も読んで損はない。加えて言うなら、「全体主義の下で内面の自由があるか」という短い論文も読む価値がある。いずれも『象を撃つ―オーウェル評論集 1 平凡社ライブラリー』
に所収されている。
オーウェルの考え方を端的に述べた文をいくつか引用すると、例えば、
もちろん小説家は現代史について直接書かなくてはならないというわけではないけれども、その時の重要な公的事件をただ見すごすような小説家はだいたいが愚か者か、ほんとうのばかである
――「鯨の腹の中で」P12
*この箇所は、この評論の最も重要な箇所だとは思わないけれど、僕はこういうオーウェルの語り口が好き。
どんな本も政治的偏見から本当に自由ではない。芸術は政治とまったく掛かり合いを持つべきでないという意見は、それ自身がひとつの政治的態度である。
――「なぜ私は書くか」P112
独裁政府の下にあっても、内面は自由であると信じること…なぜこの考えが虚偽なのか。…そのもっとも大きな誤りは、人間が自立的な個人であると思っていることである。専制政府の下で秘密の自由が享受できるなどと思うのは、ナンセンスである。なぜなら、人の思想はけっして完全にはその人自身のものではないからである。哲学者、作家、芸術家、あるいは科学者さえもが、励ましや読者だけでなく、他の人々からの不断の刺激を必要としている。話すことなしに考えるのは、ほとんど不可能である。もしデフォーがほんとうに無人島に住んでいたならば、『ロビンソン・クルーソー』を書くこともできなかったし、書きたいとも思わなかったであろう。言論の自由を取り去れば、創造能力は干上がってしまうのである。
――「全体主義の下で内面の自由があるか」P251-252
*「…」の箇所は長くなるので省略した。且つ一応意味が通るようにしたと思うが、わかりにくい人は直接本を読んで欲しい(丸投げ?)。
また、誰も見なくても(おそらく、そのときの政治的背景、主張とは無関係に)芸術家は絵を描く、という意見は、論文ではないが、サマセット・モームの『月と六ペンス』
という本が面白い。
このけっこう複雑な世の中で政治的であることを選ぶ、あるいは多少なりとも政治的であろうとするのか、それともすべてを遮断して「鯨の腹の中に」いることを望むのか。さぁ僕はどっち?
*「鯨の腹の中で」と言ってもゼペットじいさんは出てきませんのであしからず。
また浜野さんの記事を含めて、12月号では「性」に関する特集(といっても短いものだがそれはこの雑誌の形態上仕方ない)が組まれていた。それ自体は面白いものだったのだが、その中の河合香織さんの『セックスボランティア』
という本に関する記事は今ひとつだった。もちろん、これは河合さんの本がダメというのではなくて、その記事の内容がイマイチだった、ということ。僕は河合香織さんのこの本を読んでいたので、この記事を楽しみに読んだのだが、どこにも河合さんの本に、既に書いてあること以上のことは書いていなかった。ただ本の内容を短く要約しましたというだけ。本の内容が多少とも面白かっただけに、何か河合香織さん自身の新しい考えのようなものが読み取れれば僕は嬉しかったのだが…。残念。もしかしたら、そういう立ち入った内容を書けるスペースは取れなかったのかも知れないしね。(でも少し辛いことを言うと、要約のような記事自体も、河合さんの本の魅力を十分に伝えるものではないような気がした。情報の羅列)。
また、僕がビッグ・イッシューを買うもう一つの理由は、それが買いやすいということ。僕がよく通りかかる所で販売されているし、本屋みたいに立ち読みしている人が多すぎて買うのに一苦労するということがないから。そもそも店の中に入らなくてよいし、歩きがてらに買えるというのは魅力的だ。ただこの季節は寒いので販売される方は大変だと思う(お疲れさまです)。でもだからと言って、そういう理由では買わないと思うけれど。少なくともそういう態度を全面に出す人は胡散臭いぜよ。
あとは値段も安くて買いやすい。ただ、ビッグ・イッシューが販売されているときにいつも僕が通りかかるとは限らないので、今日みたいに今月号と共にバックナンバーも販売されているのは有り難かった。ナイスなシステムだと思う。
では、そういうことで。気になった方は買って読んでみて下さい。けっこう楽しめますよ。
今聴いている音楽。

Human, Nitin Sawhney
インドにルーツを持つNitin Sawhney(ニティン・ソーニー/ニティン・サウニー)。インドからの移民の両親の下、英国に生まれた。彼の音楽は、例えば、同じようにインドにルーツを持つTalvin Singhの音楽がタブラをより全面に出したものであるのに対し、アプローチの仕方がもう少し広いというか、音に色んなジャンルからの影響を感じさせる(でもこう言ったからといって、タルヴィン・シンとの優劣をつけているのではない。タルヴィン・シンの音楽も僕は大好き)。また5曲目のヴォーカルで、Aqualung の Matt Hales が参加。他の参加アーティストと同様、良い歌声を聴かせてくれる。
■Nitin Sawhney Official site
*少ないがいくつかの曲が試聴できるので、時間のある方は覗いてみて欲しい。僕としてはVideoを見るのがオススメ。
では、オールヴォワール、モナミ。結構書いた。いつものことだが、こうなるとこの記事をどのカテゴリーにいれるか悩む。「カテゴリー」って難儀だな。
結果、買ったのは奈良美智表紙の12月号、UA表紙の11月号、ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)表紙の10月号、の三冊。
ジョニー・デップ(Johnny Depp)が表紙のものも欲しかったけれど売り切れとのこと。やはりデップの人気はすごいということなのか。
一冊200円なので計600円。
さて、ビッグ・イシューがどんな雑誌かという情報はこちら。
■ビッグイシュー日本版
僕はこのビッグ・イッシューという雑誌をちょくちょく買って読んでいる。というのも、一番の理由は面白いから。今日買った三冊も面白かった。
例えば、12月号は奈良美智さんのインタビュー、犬神サーカス団の凶子さんの短いインタビュー、。浜野佐知さんという映画監督のインタビューが面白かった(この方のことについては何も知らなかったので知れてよかった)。またどういうわけか、僕は奈良美智という人を誤解していた。言い方は悪いが、ちょっとした売れ筋アーティストだと思っていた。しかし、実際は純粋に絵を描くことを愛する人だった。服装を気にしないという辺りにも好感が持てた。単なる先入観/偏見で人を判断してはいけない(自明の自戒)。
11月号はUAのインタビューがまぁまぁ面白く、またイライジャ・ウッド(Elijah Wood)のインタビューもちょっぴり面白かった(僕の友達はイアン・マッケランさ、というくだり)。あとは刑務所に関する記事も。
10月号はユアン・マクレガーのインタビュー、「アジア、マンガ事情」と冠された特集記事、ソウル・ウィリアムズ(Saul Williams)の記事が面白かった。特に「芸術は政治的だ」という彼(Saul Williams)の態度が興味深かい。もちろん、この意見には賛否もあろうが、僕はジョージ・オーウェルの考え方なんかに影響を受けているので、芸術家・作家などがその時代の重大な政治的事件を無視するということには少し否定的。でもあらゆる芸術(あるいは芸術家、作家)が政治的目的を持っていなければならない、という気もしないのだが。でもこれについてはぼんやり考えているだけなので自分の考えを書くのは止めておく。オーウェルがどう述べているか気になる方は、『鯨の腹のなかで―オーウェル評論集 3 平凡社ライブラリー』という本の「鯨の腹の中で」という評論を読むのがオススメ。とても面白い分析がなされている。あとは有名な「なぜ私は書くか」という論文も読んで損はない。加えて言うなら、「全体主義の下で内面の自由があるか」という短い論文も読む価値がある。いずれも『象を撃つ―オーウェル評論集 1 平凡社ライブラリー』
オーウェルの考え方を端的に述べた文をいくつか引用すると、例えば、
もちろん小説家は現代史について直接書かなくてはならないというわけではないけれども、その時の重要な公的事件をただ見すごすような小説家はだいたいが愚か者か、ほんとうのばかである
――「鯨の腹の中で」P12
*この箇所は、この評論の最も重要な箇所だとは思わないけれど、僕はこういうオーウェルの語り口が好き。
どんな本も政治的偏見から本当に自由ではない。芸術は政治とまったく掛かり合いを持つべきでないという意見は、それ自身がひとつの政治的態度である。
――「なぜ私は書くか」P112
独裁政府の下にあっても、内面は自由であると信じること…なぜこの考えが虚偽なのか。…そのもっとも大きな誤りは、人間が自立的な個人であると思っていることである。専制政府の下で秘密の自由が享受できるなどと思うのは、ナンセンスである。なぜなら、人の思想はけっして完全にはその人自身のものではないからである。哲学者、作家、芸術家、あるいは科学者さえもが、励ましや読者だけでなく、他の人々からの不断の刺激を必要としている。話すことなしに考えるのは、ほとんど不可能である。もしデフォーがほんとうに無人島に住んでいたならば、『ロビンソン・クルーソー』を書くこともできなかったし、書きたいとも思わなかったであろう。言論の自由を取り去れば、創造能力は干上がってしまうのである。
――「全体主義の下で内面の自由があるか」P251-252
*「…」の箇所は長くなるので省略した。且つ一応意味が通るようにしたと思うが、わかりにくい人は直接本を読んで欲しい(丸投げ?)。
また、誰も見なくても(おそらく、そのときの政治的背景、主張とは無関係に)芸術家は絵を描く、という意見は、論文ではないが、サマセット・モームの『月と六ペンス』
このけっこう複雑な世の中で政治的であることを選ぶ、あるいは多少なりとも政治的であろうとするのか、それともすべてを遮断して「鯨の腹の中に」いることを望むのか。さぁ僕はどっち?
*「鯨の腹の中で」と言ってもゼペットじいさんは出てきませんのであしからず。
また浜野さんの記事を含めて、12月号では「性」に関する特集(といっても短いものだがそれはこの雑誌の形態上仕方ない)が組まれていた。それ自体は面白いものだったのだが、その中の河合香織さんの『セックスボランティア』
また、僕がビッグ・イッシューを買うもう一つの理由は、それが買いやすいということ。僕がよく通りかかる所で販売されているし、本屋みたいに立ち読みしている人が多すぎて買うのに一苦労するということがないから。そもそも店の中に入らなくてよいし、歩きがてらに買えるというのは魅力的だ。ただこの季節は寒いので販売される方は大変だと思う(お疲れさまです)。でもだからと言って、そういう理由では買わないと思うけれど。少なくともそういう態度を全面に出す人は胡散臭いぜよ。
あとは値段も安くて買いやすい。ただ、ビッグ・イッシューが販売されているときにいつも僕が通りかかるとは限らないので、今日みたいに今月号と共にバックナンバーも販売されているのは有り難かった。ナイスなシステムだと思う。
では、そういうことで。気になった方は買って読んでみて下さい。けっこう楽しめますよ。
今聴いている音楽。

Human, Nitin Sawhney
インドにルーツを持つNitin Sawhney(ニティン・ソーニー/ニティン・サウニー)。インドからの移民の両親の下、英国に生まれた。彼の音楽は、例えば、同じようにインドにルーツを持つTalvin Singhの音楽がタブラをより全面に出したものであるのに対し、アプローチの仕方がもう少し広いというか、音に色んなジャンルからの影響を感じさせる(でもこう言ったからといって、タルヴィン・シンとの優劣をつけているのではない。タルヴィン・シンの音楽も僕は大好き)。また5曲目のヴォーカルで、Aqualung の Matt Hales が参加。他の参加アーティストと同様、良い歌声を聴かせてくれる。
■Nitin Sawhney Official site
*少ないがいくつかの曲が試聴できるので、時間のある方は覗いてみて欲しい。僕としてはVideoを見るのがオススメ。
では、オールヴォワール、モナミ。結構書いた。いつものことだが、こうなるとこの記事をどのカテゴリーにいれるか悩む。「カテゴリー」って難儀だな。
カラマーゾフの兄弟、ドストエフスキー
少し前にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み終えた。
今日書くのはそれを読んだことについての覚え書き。しかもとても個人的な覚え書き。
僕には小さなことをくよくよと悩むというか考える癖がある。それは僕にとって長所でもあり短所でもあると思う。1年ほど前にも、あることがきっかけで悩んでいた。そのとき、その悩みを打ち明けた知り合いが僕に言った言葉がこうだった。
『そんなこと言ったって君、君が真剣にやろうと思っていることをやらないでどうするんですか。(・・・中略)ドストエフスキーの本の中でアリョーシャがこう言う所があります。「みんながそうだからと言ってあなたまでそうである必要はないのです」。(君の悩んでいることだって)同じことです。』
かなりうろ覚えだが、少なくとも言われたことの趣旨はこうだった。
僕はそう言われたとき、相当に目から鱗が落ちる思いをしたことを覚えている。そしてその頃、僕はまだ『カラマーゾフの兄弟』を未読だったので是非ともその言葉が出てくるシーンを自分で味わいたいと思っていた。そして上で言われた言葉が『カラマーゾフの兄弟』の中で出てくる正確なシーンを引用すればこうだ(特に前後の文脈を説明せずに引用するが、アリョーシャがコーリャに話しかけているシーンであることだけ伝えておく)。
――米川正夫訳、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
カラマーゾフの兄弟をちょっと読んでみようかな、と思った人はこちら
→『カラマーゾフの兄弟』
。
*米川正夫の訳よりも他の人の訳本の方がアマゾンでは手に入りやすいようです。例えばこれ(僕が上で引用した文は米川正夫訳ですが)、

カラマーゾフの兄弟 上 新潮文庫, ドストエフスキー (著), 原 卓也 (翻訳)
さて、ここでアリョーシャが言う「たとえみんながそうであっても、きみひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。」という言葉の意味を僕はどう理解しよう。
ごくごく一般的に考えて、人は年をとるごとに「たとえみんながそうであっても、きみひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。」と考えるのが難しくなると思う。そりゃ若い頃は変に斜に構えて、物事を斜めから見てばかりいたかも知れないが(少なくとも僕はそういうガキだった)、年をとればいつの間にか、良くも悪くもそういう風に考える気持ちも少なくなる。よく言えば、協調性を持ったり、他人の気持ちを推し量ることができるようになったと言うのかも知れないが、それとともに、どこか自分で考えるということを面倒な事として放棄してしまったような気もする。またあるいは、(これは僕自身がそうだったのだが)自分で考えることの大切さを知りながらも全体のことを気にする余り(他人の目を気にする、と言ってもよい)、却って「自分で考える」という一番大切な事ことができなくなり、自己のバランスを失なってしまっていた…。
さらに、これは僕だけが感じていることなのかも知れないが、いまどき物事を真剣に考えるということはある意味で余り流行らない。
例えば、ちょっとマトモなことを言おうとすると「堅苦しい」とか「詰まらん」とか「オモイ」とか「キモイ」とか言われるのではないだろうか。
はてさて僕個人の意見を言えば、そういう風潮は今に始まったことではないし、あらゆることに対して"Never mind!!"という姿勢(なだいなださんの言葉を借りれば「ジュ・マン・フーティスム」。つまりは「そんなこと知ったことか」・「勝手にしやがれ」・「それがどうした」・「それがなんだってんだ」主義)にある程度の理解も持っているし、僕自身「そんなことどうでもいいでじゃん」という姿勢を強く持っていた頃もあった(さっき言った、どうしようもない若いガキの頃とかね)。
*なだいなださんのこの言葉に関心を持った人は、『人間、この非人間的なもの』
という彼の本を読むことをオススメする。
しかしどうだろう? これは僕だけなのかも知れないが、逆に年をとればとるほど、「そんなことどうだっていいじゃん」と言える(思える)瞬間が減っていくように思う。だって世界は(世の中は)、僕が思っているほど、あるいは「そんなことどうだっていいじゃん」って平気で言えるほどいいものじゃないんだもの・・・。
そして、たとえそうであっても「知ったことか!!」と言えるのが、なだいなださんの言う意味での「ジュ・マン・フーティスト」=「そんなこと知ったことか主義者」だと思うが、どうやら僕はそう言えるような大人に成長しなかったらしい(これがいいことなのかどうかは、それこそ僕は「知らない」。でもそうなっちゃったんだもんね。ニヒヒ)。
でもそんな人――つまり上で言った意味での「そんなことどうだっていいじゃん」と言えない人――にも、現実に圧倒される瞬間は必ずやってくる。これはその人が妙にマジメぶっていたり、いい子ぶっているせいだからではない。ある意味では、自分が所属している組織の在り方に少しでも疑問を持つ人や、誰もが疑問に思わないこと、あるいはわかっていても仕方ないと受け流していることに少しでも疑問を持つ人には必ずやって来る(つまり、ふとした瞬間に自分の頭で考えてしまった人、その考えを拭いきれなかった人には必ずやって来る)。
そんなときですよ。アリョーシャの言葉がとても強い意味を持つのは。
あるいは、僕の好きなバンド、アタリス(the Ataris)の歌の歌詞からとればこうだ。
――The Ataris "Losing Streak" from their album "Blue Skies, Broken Hearts...Next 12 Exits"
もちろん、これらの言葉は実際の場面において具体的にどうしたらよいかという指針を与えてはくれない。でも僕は、実際にそういう場面におかれた人が悩んだり、もがいているということに共感するし、そういう人を尊敬します。だから、そういう人にこそアリョーシャの言葉を忘れないでいて欲しいと思う。そして、できればそこからどうするかということを考えて欲しいと思う(もちろん、その人がそうしたければですが)。そして、その人の周りにいる人たちも、そういう人がいることに気づいて一緒に悩んであげればいいと思う。こういうことは全くの理想で、僕が夢見がちなだけなのかも知れないが、少なくとも僕は、そういう態度の大切さを『カラマーゾフの兄弟』から学んだ(もちろん、学んだこと、考えさせられたことはそれだけではないが)。
また抽象的なことを言っているのはよくわかっているが、少なくとも僕にとって、生きるということはそれほど無味乾燥なものでもなければ、無感動なものでもないのですよ(そして恐らくは誰にだってそうだろう)。
「日々ダイナミック」
これが合い言葉で。(今思いついたということは秘密です)。
本当に個人的な覚え書きになったと思う。まぁそれはそれでいいか(こういうときこそ"Never mind").
では、オールヴォワール、モナミ。
今日書くのはそれを読んだことについての覚え書き。しかもとても個人的な覚え書き。
僕には小さなことをくよくよと悩むというか考える癖がある。それは僕にとって長所でもあり短所でもあると思う。1年ほど前にも、あることがきっかけで悩んでいた。そのとき、その悩みを打ち明けた知り合いが僕に言った言葉がこうだった。
『そんなこと言ったって君、君が真剣にやろうと思っていることをやらないでどうするんですか。(・・・中略)ドストエフスキーの本の中でアリョーシャがこう言う所があります。「みんながそうだからと言ってあなたまでそうである必要はないのです」。(君の悩んでいることだって)同じことです。』
かなりうろ覚えだが、少なくとも言われたことの趣旨はこうだった。
僕はそう言われたとき、相当に目から鱗が落ちる思いをしたことを覚えている。そしてその頃、僕はまだ『カラマーゾフの兄弟』を未読だったので是非ともその言葉が出てくるシーンを自分で味わいたいと思っていた。そして上で言われた言葉が『カラマーゾフの兄弟』の中で出てくる正確なシーンを引用すればこうだ(特に前後の文脈を説明せずに引用するが、アリョーシャがコーリャに話しかけているシーンであることだけ伝えておく)。
アリョーシャは微笑の影さえもうかべずに言い出した。「あなたもすべての人たちと同じです」とアリョーシャは語を結んだ。「つまり。大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに」
「みんながそうなのに?」
「そうです、たとえみんながそうであっても、きみひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。それに、じっさい、きみはみんなと同じような人じゃありません。現にきみは今も、自分の悪いこっけいな点さえ、認めることを、恥じなかったじゃありませんか。まったく今日だれがそういうことを自覚しているでしょう? だれもありゃしません。そのうえ、自分を責めようという要求さえも起こさないんです。どうかみんなのような人間にならないでください。たとえそういう人間でないものが、ただきみひとりだけになっても、きみはそういう人間にならないでください」
――米川正夫訳、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
カラマーゾフの兄弟をちょっと読んでみようかな、と思った人はこちら
→『カラマーゾフの兄弟』
*米川正夫の訳よりも他の人の訳本の方がアマゾンでは手に入りやすいようです。例えばこれ(僕が上で引用した文は米川正夫訳ですが)、

カラマーゾフの兄弟 上 新潮文庫, ドストエフスキー (著), 原 卓也 (翻訳)
さて、ここでアリョーシャが言う「たとえみんながそうであっても、きみひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。」という言葉の意味を僕はどう理解しよう。
ごくごく一般的に考えて、人は年をとるごとに「たとえみんながそうであっても、きみひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。」と考えるのが難しくなると思う。そりゃ若い頃は変に斜に構えて、物事を斜めから見てばかりいたかも知れないが(少なくとも僕はそういうガキだった)、年をとればいつの間にか、良くも悪くもそういう風に考える気持ちも少なくなる。よく言えば、協調性を持ったり、他人の気持ちを推し量ることができるようになったと言うのかも知れないが、それとともに、どこか自分で考えるということを面倒な事として放棄してしまったような気もする。またあるいは、(これは僕自身がそうだったのだが)自分で考えることの大切さを知りながらも全体のことを気にする余り(他人の目を気にする、と言ってもよい)、却って「自分で考える」という一番大切な事ことができなくなり、自己のバランスを失なってしまっていた…。
さらに、これは僕だけが感じていることなのかも知れないが、いまどき物事を真剣に考えるということはある意味で余り流行らない。
例えば、ちょっとマトモなことを言おうとすると「堅苦しい」とか「詰まらん」とか「オモイ」とか「キモイ」とか言われるのではないだろうか。
はてさて僕個人の意見を言えば、そういう風潮は今に始まったことではないし、あらゆることに対して"Never mind!!"という姿勢(なだいなださんの言葉を借りれば「ジュ・マン・フーティスム」。つまりは「そんなこと知ったことか」・「勝手にしやがれ」・「それがどうした」・「それがなんだってんだ」主義)にある程度の理解も持っているし、僕自身「そんなことどうでもいいでじゃん」という姿勢を強く持っていた頃もあった(さっき言った、どうしようもない若いガキの頃とかね)。
*なだいなださんのこの言葉に関心を持った人は、『人間、この非人間的なもの』
しかしどうだろう? これは僕だけなのかも知れないが、逆に年をとればとるほど、「そんなことどうだっていいじゃん」と言える(思える)瞬間が減っていくように思う。だって世界は(世の中は)、僕が思っているほど、あるいは「そんなことどうだっていいじゃん」って平気で言えるほどいいものじゃないんだもの・・・。
そして、たとえそうであっても「知ったことか!!」と言えるのが、なだいなださんの言う意味での「ジュ・マン・フーティスト」=「そんなこと知ったことか主義者」だと思うが、どうやら僕はそう言えるような大人に成長しなかったらしい(これがいいことなのかどうかは、それこそ僕は「知らない」。でもそうなっちゃったんだもんね。ニヒヒ)。
でもそんな人――つまり上で言った意味での「そんなことどうだっていいじゃん」と言えない人――にも、現実に圧倒される瞬間は必ずやってくる。これはその人が妙にマジメぶっていたり、いい子ぶっているせいだからではない。ある意味では、自分が所属している組織の在り方に少しでも疑問を持つ人や、誰もが疑問に思わないこと、あるいはわかっていても仕方ないと受け流していることに少しでも疑問を持つ人には必ずやって来る(つまり、ふとした瞬間に自分の頭で考えてしまった人、その考えを拭いきれなかった人には必ずやって来る)。
そんなときですよ。アリョーシャの言葉がとても強い意味を持つのは。
「どうかみんなのような人間にならないでください。たとえそういう人間でないものが、ただきみひとりだけになっても、きみはそういう人間にならないでください。」
あるいは、僕の好きなバンド、アタリス(the Ataris)の歌の歌詞からとればこうだ。
"Don't ever compromise what you believe". (自分の信じていることには決して妥協するな)。
――The Ataris "Losing Streak" from their album "Blue Skies, Broken Hearts...Next 12 Exits"
もちろん、これらの言葉は実際の場面において具体的にどうしたらよいかという指針を与えてはくれない。でも僕は、実際にそういう場面におかれた人が悩んだり、もがいているということに共感するし、そういう人を尊敬します。だから、そういう人にこそアリョーシャの言葉を忘れないでいて欲しいと思う。そして、できればそこからどうするかということを考えて欲しいと思う(もちろん、その人がそうしたければですが)。そして、その人の周りにいる人たちも、そういう人がいることに気づいて一緒に悩んであげればいいと思う。こういうことは全くの理想で、僕が夢見がちなだけなのかも知れないが、少なくとも僕は、そういう態度の大切さを『カラマーゾフの兄弟』から学んだ(もちろん、学んだこと、考えさせられたことはそれだけではないが)。
また抽象的なことを言っているのはよくわかっているが、少なくとも僕にとって、生きるということはそれほど無味乾燥なものでもなければ、無感動なものでもないのですよ(そして恐らくは誰にだってそうだろう)。
「日々ダイナミック」
これが合い言葉で。(今思いついたということは秘密です)。
本当に個人的な覚え書きになったと思う。まぁそれはそれでいいか(こういうときこそ"Never mind").
では、オールヴォワール、モナミ。

